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盲人と文字 -漢点字の世界-
********************************** 川上泰一
1、点字の誕生
「大東亜戦争」は完敗で、ミズリー艦上における重光大使の姿を昨日のことのように思い出す。とにかく飯を食わなければならない。あれやこれやと、どうにか戦後を生き抜いてきたが、あの時代を思うと寒気がする。昭和24年の暮、先輩の紹介で、農学校だと聞いて行ってみたら盲学校であった。紙や鉛筆のなかった時代で。職員室のド真ん中で、
「ここは盲学校ですか」
周辺の盲教育に従事している盲人の先生たちが驚きの目を、いや耳を私の方に向けた。
日本の盲学校は不思議なところである。収容されている生徒は盲人だけではない。約半数は弱視の生徒である。教室には黒板が設置され、教師はそれを使いながら教育を進めている。そんな時、目の見えない盲人はただなすこともなく、無為の時間をすごしている。盲学校とは名前だけで、実質は弱視学校である。校内を一巡したが、弱視の生徒が本に目を近づけて点字の本を読んでいる。
「点字は鼻の先でも読むのですか」
そのころは弱視の生徒も、本だけは点字の本を使っていた。古い卒業生で視力を持ちながら活字を読めない人がいるのには驚いた。現在では堂々と活字の教科書が使われ、リハビリテーション科の生徒は細字の専門書を読んでいる。
盲人で自分たちで読める文字を持ちたいという願望は昔からあった。西暦一世紀の初め、ヨーロッパでは象牙や金属板に書かれた凹刻文字を盲人が指先で読んだという記録がある。凹刻文字であるため読みにくいのは当然だがそのころから盲人の文字に対する憧れというようなものがあったのだ。しかしその後は全世界は戦乱に明け暮れし、十六世紀に入ってようやくスペインで木片に刻印された触読用文字が発表されている。いずれも凹刻文字であったが、触読に耐えると報告されている。十七世紀に入って英国では長い紐に結び目を作り、その間隔で簡単な記録をするという方法が考えられたが、これはむしろ例外的な方法であった。十七世紀の中ごろ、平板に蝋を流し、その上に鉄筆で字を書き、それを読むという方法が開発された。いずれも凹刻文字であったが、一応読めたようである。そのころから凸刻文字の研究が始められている。十七世紀の後半、イタリアでは点と線の組み合わせであるアルファベットが考案され、凸文字として注目を浴びている。この場合、曲線を除外して総て直線にしたのは賢明であった。指先の感覚では曲線の区別が個人によって非常に異なるものがあるからである。現在では活字をそのままの形で浮かび上がらせる装置も開発されているが、読める人は少ないようである。
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