前のページへ

 当時パリ訓盲院にルイ・ブライユという少年が在学していた。パリ郊外のグーブレ村の生まれで、幼少のころ小刀で目を突き失明した。バルビエの点字を知り、その改良を申し入れたが許可されず、単独で研究を進めた結果、六点点字を完成した。しかし世界はこの六点点字を容認せず、彼は不遇の中で一生を終えている。六点点字が世界に公認されたのは、彼の死後二年目のことである。ここにルイ・ブライユの小伝を記し、彼の功績をたたえたい。
 私はそのころルイ・ブライユの生涯について、改めて考えさせられることが多かった。それは私がその数年間、1820年代のブライユのように、点の配列の中に埋もれていたばかりでなく、当時彼が置かれた立場と同じような状況が、1970年代の私の周辺に渦巻いていたからである。(当時私は漢点字なるものを発表したが、周辺の状況はブライユ時代とまったく同様であった)。
 ブライユの伝記はいろいろあるが、残念ながら精彩な資料となるとほとんどない。なにぶん彼の書いた文書は、すべて当時は公認されていなかった「彼だけの文字」で書かれていたため、彼の死とともに数片の手紙を除いてすべて喪失されたからである。したがって彼の43年にわたる人間性の記述は、後世の伝記編集者の憶測が多分に入り交じって、二面的な人物像を描き出している。
 その代表的なものは、アメリカのアルビンが書いたもので、彼はその中でブライユとボアイエの出会いを次のように書いている。
「パリのあるカフェで、ブライユは友人の読んでくれる新聞を聞いていた。と、その中に、ボアイエ砲兵大尉が、暗やみの中で読める点の文字を考案したことが報じられていた。ブライユの頭に霊感がひらめき、思わず大声を上げてテーブルをたたいた」
 これはブライユの生涯を劇的に展開しようとする筆者の、あまりにもたくましい想像力に過ぎない。彼はまた、こうも書いている。
「敬意をもって、ブライユの人柄と功績を称えたい」
 一方、ブライユが所属している盲学校の教授は、その著書の中で次のように書いている。
「ブライユの生涯は、彼を有名にしている点字を除けば、興味はない」
 アルビンも教授も、点字創案の功績をたたえながらも、その人間性について、なぜこうも極端な開きを見せるのであろうか。私は150年の歳月を経た現在、今なお洋の東西を問わず残存している盲人に対する同情論と軽視論の両端を、彼らの中に見るような気がする。これでは、人間としてのブライユの偉さに迫ることはとうていできない。ブライユは「涙をもって称えられる」ような弱者でもなかったし「興味がない」と片づけられるような凡人でもなかった。それでは彼は、どんな人物であったであろうか。
 たしかにブライユに関する資料は少ない。しかし彼は今なお「自分の言葉」で私たちに話しかけていることを忘れてはならない。その言葉を聞かずして彼を語ることは、盲人の表面の不活発性のみを見て、内部に蔵される活力を無視する結果になる。彼が今なお語り続けている言葉とは、彼が定めた六つの点の配列である。われわれは完成された点字を見て、安易な評価におちいりやすいが、その配列に至る道程の中に、彼の強じんな人物像を読み取ることができる。

次のページへ

川上泰一のページへ

トップページへ